李御寧(1982)『「縮み志向」の日本人』学生社

本書は従来の日本文化論と異なり、韓国の初代文化大臣や国際日本文化センターの客員教授を務めてきた韓国人学者による韓国文化との比較研究である。日本論を語るときに欧米との比較で論じる著書は多いが、それらは「義理人情」や「恥」、「タテ社会」に代表される儒教的価値観に基づく特徴を全て日本独自の文化、価値観であると決めつけてしまっているものが多い。しかし実際は、それらはむしろ韓国の特性であったり、アジア圏に共通する特性であったりする。「日本人論は韓国人の観点、もしくは韓国の文化風俗との比較を通して書かれたとき、その特性により接近できる可能性があるのではないだろうか」(p.22)と筆者は考える。本書では日本には「縮み志向」があるとし、枕草子、俳句、風呂敷から鎖国、ウォークマンに至るまで、あらゆるものを例に挙げながら、小さいものを好む日本人の文化について考察している。全てを無理に「縮み志向」にこじつけている、という批判も多いが、追補として記されている筆者の反論は十分に納得がいくものである。他文化との比較においては物足りない部分もあるが、本書は全体を通して日本文化を理解する一つの切り口として興味深い。日本文化研究のための参考文献としてだけでなく、一読み物としても面白いものなので、お勧めしたい。(2018秋 平井)

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ケース・フェルステーヘ著、長渡陽一訳(2016)『アラビア語の世界 : 歴史と現在』三省堂

アラブ世界では、従来、コーランの文体や文章にまつわる研究が、「言語学」とされ、方言やその他の口語についての研究はイスラーム的に「ふさわしくないもの」とされたり、タブー視もされてきた。ゆえに、言語学のアラビア語領域、アラブ世界の言語学領域は他領域と比べ進んではいないとも言われている。本書は、そんな言語学アラビア語領域のあらゆる分野を取り上げ、網羅している一冊である。本書では、イスラーム以前(ジャーヒリーヤ)の文字がなかった時代のアラビア語から、アラビア語そのものの成り立ち、西欧世界におけるアラビア語研究の歴史、アラビア語文法学、諸方言、現代標準アラビア語の成立、アラブ世界におけるダイグロシア、バイリンガリズム、アラビア語のピジン語、クレオール語、世界語としてのアラビア語など、過去から現在まで、多岐にわたり緻密にまとめあげられている。そして各章末の文献案内には、それぞれの分野の第一人者から最新の研究までが記述されており、編集の都合上、本文内で深く扱えなかった研究分野についても、研究者や論文が細かく紹介されている。アラビア語に関する書籍で、本書の詳細さを凌ぐものは他にないだろう。アラビア語研究初心者からすでに研究を進めている人まで、研究・調査への参考文献探しにも、アラビア語の奥深さを知るためにも、特にお勧めの本であり、アラビア語を研究テーマにするなら、必携の一冊であろう。(2018秋 上田)

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S.I.ハヤカワ (1985) 『思考と行動における言語』岩波書店

本書は一般意味論の入門書として版を重ねる古典的名著である。一般意味論とは、言語学の意味論とは異なったものであり、記号(特に言語)が人間に対してどのような役割を果し、また人間がいかに反応するかを研究する言語理論のことである。本書は二部構成となっており、第一部ではコトバそのものの特徴と機能について記されている。その上で、第二部ではその言語の機能と、それに伴う思考によってどのような働きが引き起こされるのかについて記されている。
我々が生きている現代は情報社会と呼ばれる歴史的にみて最も多くの情報が溢れ、誰もがそれらの情報にアクセスできる時代である。その中で我々は日常から膨大な量の情報に接し続けている。また、SNSなどを通して自らが情報を発信することも容易にできるようになった。そういう時代であるからこそ、情報を如何に受け取り、如何に発信するのかということをしっかりと学び理解すること重要性が一段と増している。本書は、コトバに関するあらゆる行動を起こす際の指標とできる一冊となっている。そのため、情報社会で生きる我々に、一般意味論という言語学的アプローチからコトバと意味、そして情報との向き合い方を見つめ直すことのきっかけを与えてくれると思う。(2018秋 白石)

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坂中英徳(2016)『日本型移民国家の創造』東進堂

本書は、法務省入国管理局入国在留課長や東京入国管理局長などを歴任し、移民政策研究所の所長を務める著者が、45年間にも渡り日本の外国人政策に第一線で関わる中で得た豊富な経験と知識に基づいて論じた移民政策論の決定版ともいうべき一冊である。本書は全15章からなり、主題である「日本型移民政策」とそれを支える「人類共同体思想」などの諸理論、著者が肌で感じてきた外国人受け入れに対する世論や政治、行政、経済界の態度とその変化、人口減少が経済や社会に与える影響と移民受け入れにより予想される効果、日本の外国人政策史の概要、著者の移民政策論およびその評価について論じられている。著者は、人口減少社会を迎えている日本は、経済や社会を維持するために、永住者としての移民を50年間で1000万人受け入れる必要があるという「移民1000万人政策」を提唱しており、本書もその主張を基に構成されている。そのため本書は、外国人受け入れ推進派の代表的な主張として捉えることができ、肯定と否定の両方の立場から検討することができる。また、近年の移民政策論の多くが、人類の多様性を強調し、多文化共生を目標に掲げているのに対し、本書における著者のそれは、人類の同一性を強調するものであり、移民政策論における新たな視点を提供してくれる。ただし、本書を読むにあたっては、日本の社会や移民政策の今後に関して、著者の論拠に基づいた見解と理想を混同しないよう十分注意したい。(2018秋 苅谷)

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佐藤健二(2012)『ケータイ化する日本語 モバイル時代の“感じる”“伝える”“考える”』大修館書店

本書は、ケータイの誕生により変容した「ことば」の在り方を、多角的に論じる一冊である。前半では「ことば」の本質を社会、歴史、肉体の観点から考察し、筆者の「ことば」に対する認識を明らかにしている。後半では音声だけで構成されたバーチャルな個室空間を作り上げる電話、新たな文字言語を生み出したメールについて、具体的な事例を分析しながら考察し、従来の「ことば」の機能の変化を仔細に述べている。最後に、第三者の介入しない密室化されたやり取りでは、「ことば」から他者を想像し敬意を払う公共性が失われている点に警鐘を鳴らし、本書を締めくくっている。
本書の魅力は、ケータイが普及したことで生活の利便性が増した一方、人々のコミュニケーション能力が低下した、という一般論に終始していない点である。筆者は本書の中で一貫して、「ことば」を使う人々ではなく、人々に使われる「ことば」を主語として置いている。これは、ケータイの革新的な機能が人々の生活や意識に影響しただけでなく、言語の本質にも影響を与えたという筆者の認識によるものであり、社会学だけでなく言語学も要するまさに社会言語学的な考え方と言える。普段使用している「ことば」を見つめ直す必要性を強く感じさせてくれる一冊である。
(2018秋 常田)

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杉本大一郎(2010)『外国語の壁は理系思考で壊す』集英社

日本人は他国の人より外国語の学習に膨大な時間と努力を費やしているにも関わらず、外国語を実用的に使えるようになっていない。これは膨大な国民的損失である。本書では発想を根本から変えて、英語の先生の固定観念には囚われずに、科学的に言葉というものの性格を理解していく。はじめに、他国の人が話す英語の特徴や外国語の音について記されている。また、いろいろな外国語を知ることで英語も分かるようになるという主張から、さまざまな外国語の特徴について紹介している。アルファベットを例にとっても、さまざまな言語的背景から、文字が増えたり減ったりしている。ヨーロッパの言語は、それらの文化の融合の中で育ってきたために相互関連が多岐にわたるためである。本書は他言語との比較や普段何気なく略している英語の意味などから、英語を「覚える」ではなく「理解する」ことに重点を置いている。また、具体例を多くあげているので、さまざまな言語の特徴を理解できる内容となっている。(2018年秋 東田)

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温又柔(2018) 『台湾生まれ 日本語育ち』 白水Uブックス

近年、出入国管理法の改正等により、日本へ外国人住民が多くやってくるようになった。来日するのは必ずしも労働者としての大人であるとは限らない。親の影響で来日する子どもたちが多いことを忘れていないだろうか。この本の著者である温又柔も、子どもの頃、まだ母語を習得途上の段階で日本にやってきた。そんな子どもたちにとって、大きな壁となるのが「ことば」である。圧倒的に日本語が優位に立つ日本社会において、彼らの母語と日本語の関係は、単なる「ことば」としての問題を生むだけ限らない。様々な文献で述べられているように、母語は子どもの成長にとって「アイデンティティの確立」や「認知面の発達」において重要な役割を担っている。この本では、「ことば」を中心として著者の人生での経験が細かく描かれ、「母語とアイデンティティ」の観点から論文や調査では知ることのできない生の声が述べられている。またこの本がエッセイとして書かれていることで、それらの文献以上に、本人たちの内に秘められてきた「ことば」と自分自身との思いや考え、葛藤を感じることができる。このような子どもたちの「ことばと心の葛藤」に目を向けられることはあまりない。今後の日本では外国人労働者の受け入れが増加し、このような子どもたちも増加していくだろう。そんな世になりつつある今、この本を少しでも多くの人が手に取ることで、ことばの大切さやいろいろなことばのあり方に気づくきっかけになってほしいと思う。(2018秋 内藤)

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ライラ・アブー=ルゴド(2018)『ムスリム女性に救援は必要か』島山純子・嶺崎寛子訳, 書肆心水

本書は、パレスチナ出身で学者の父とアメリカ出身の学者の母を持つ女性研究者によって執筆されおり、メディアが取り上げる「ムスリム女性」に対するステレオタイプを批判的に記している。筆者は中東出身の女性と信頼関係を築き、宗教とジェンダーの観点から質的に調査を行った結果を、彼女らの「内なる声」として描いている。特に、2001年9月の同時多発テロ以降、アメリカが「ムスリム女性を救済」することを政治的なエンパワーメントをもたらすために用いていることを批判的に述べている。筆者が描くムスリム女性の苦難は、メディアで語られ、政治的に主張されているようなものではなく、ムスリム女性でなくとも経験し得る苦難である。欧州のフェミニストや女性支援団体は、ムスリム女性を「彼女たちの文化から救う」という使命に燃えて活動を実施しているが、それはムスリム女性が望んでいることなのか。マスメディアが取り上げる情報をそのまま受け入れるのではなく、自分で精査して批判的に物事を受け止めるということは、さまざまな社会や文化について学ぶときに共通して持っていなければならない認識であると考えられる。そのような意味では、本書は単にムスリムに興味を持つ人や研究者に限らず、さまざまな人に読んでもらいたい一冊である。(2018 秋 荒木)

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庵功雄・イヨンスク・森篤嗣(2013)『「やさしい日本語」は何を目指すか 多文化共生社会を実現するために』ココ出版

 本書は、2008年から本格的に研究が始まったやさしい日本語に関して、17人の著者によって執筆された研究内容を集めた論文集である。第1部では、やさしい日本語の概要と実態が述べられている。第2部では、やさしい日本語の諸相が語られ、様々な角度から有用性や課題が述べられている。そして最後の第3部では、国語教育や外国人、ろう児の日本語教育に当てはめて、どう機能するかが綴られている。部の最後の章では、やさしい日本語の批判的検討がされ、今後の課題や問題点に関しても述べられており、多角的に考える手がかりを与えてくれる。
 多数の著者が著しているため、1つの章が短く読みやすくなっている。さらに、言語学の研究者だけでなく、メディア関係の著者もおり、それぞれの経験をもとに、机上論だけでないやさしい日本語を取り入れる際の現場の経験や苦労も知ることができる。やさしい日本語は、外国人に対するものという認識があり、日本語母語話者には遠くにあるものと思いがちである。しかし、この本を読み終えて、やさしい日本語は、日本語母語話者にも必要なものだと気づかされた。(2018秋 石原)

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菊池一隆(2018)『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊』平凡社新書

第2次世界大戦中、日本の植民地だった台湾の原住民(当時「高砂族」と呼ばれた)は、民族的に南方での戦闘に向いているためだけではなく、原住民自身の間にも「日本人」としての意識が高まったため、徴兵制が布かれるより早く「義勇隊」や「特別志願兵」としてフィリピンや南洋群島、ニューギニアなどの戦場に送られた。本書は、彼らがいかにして戦争に巻き込まれていき、戦場で敵への奇襲攻撃や食料の調達などで「活躍」し、戦後は見捨てられてきたかを描いている。
言語についての記述は少なく、「日本人は命令が理解できる程度の日本語教育を望んだ。」(p.55)、「驚くべきことであるが、モロタイ島ではパイワン族の言語と現地人の使う言葉が六割も通じたのである。」(p.147)くらいしかない。しかし、特に前者には当時の日本人が原住民をどのように見ていたかが如実に現れており、つらくなる。後者は台湾原住民の言語が南方のそれに通じることを述べたにすぎないが、これも見方によっては原住民が南方に動員された理由とも読めるだろう。もともとの原住民の名前のほかに日本名、中国名と3つの名前を持つ彼らは、戦後も国共内線に巻き込まれ、「日本人」として戦闘に参加したにもかかわらず補償問題が解決していないなど、苦難の道を歩んでいる。これもすべて日本の支配がもたらしたことであり、日本語教育もその一翼を担ったことは忘れてはなるまい。(2018秋 平高)

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